言峰華連

比任何一个我都要爱自己。

あの夏の日を今でも鮮明に覚えている。


 それは彼と共に過ごした初めての夏。季節の終わりを告げる雨と共に訪れた、長い長い恋の始まり。



 八月の海岸は気温以上に暑い。一面に広がる白い砂浜に太陽の光をさえぎるような物陰ははなく、降り注ぐ日差しは剥き出しの肌を容赦なく焼き付けた。念入りに準備体操をして関節をほぐす。たったそれだけでじっとりと汗が噴き出し、シャツが背中に張り付いた。

 早々に夏休みの課題を片付けた僕は、いつもの海岸で日々トレーニングに励んでいた。オールマイトとはまめに連絡は取っていたものの、実際に顔を合わせるのは数日に一度、それもほんの数時間だけだった。

 ナンバーワンヒーローとして第一線で活躍する彼は多忙を極めており、一介の中学生に割ける時間は限られている。彼の仕事量を思えばそれだけでも贅沢というものだろう。例えわずかな時間であろうとも、貴重な時間を僕のために費やしてくれていることは明らかだ。彼はこの国のトップヒーローであり、人々に愛された平和の象徴なのだから。

 頭ではわかっていても滲み出てくる寂しさは拭えない。彼が側にいてくれるとそれだけで不思議なほどに力が湧いてきたし、どんなに辛いトレーニングでも耐えられる気がした。

 もっと、彼と一緒にいたい。僕のことを見て欲しい。液晶越しのみんなのヒーローではなく、ただ僕の側で、僕だけを。

 自分の欲深さに苦笑が浮かぶ。もし数ヶ月前の自分が今の自分を見たら何と言うだろうか。

あまりの強欲さに呆れ返り、オールマイトというヒーローの偉大さ、そして今の状況がどれだけ恵まれているのかということを、嫌というほど言い聞かせられるに違いない。自身にいつもの口調でくどくどと説教される自分の姿を思い浮かべると可笑しくて思わず笑いが漏れた。


 気付けば照り付ける太陽は真上へと昇りつめていた。たっぷりと日差しを吸い込んだ砂浜は焼き石のように熱く、足元から立ち昇る熱気がじわじわと体力を奪ってゆく。

 軽く頭を振って馬鹿げた妄想を断ち切ると、バチンと頬を叩いて気合を入れ直した。僕に与えられた時間は限られている。それは彼がここにいなくても何ら変わることのない事実であり、こうしてぼんやりしている間にもタイムリミットは確実に近づいている。無駄に出来る時間などひとかけらだってありはしないのだ。

 オールマイトの期待に応えたい。無力な僕を見出し、チャンスをくれた彼の信頼に。そして何よりも自分が夢見ていた未来を掴むために。

 滴る汗をシャツで拭い、目の前のトレーニングに集中しようと身体に力を込めたその瞬間、ポケットから聞き慣れた着信音が鳴り響いた。慌てて携帯を取り出して画面を覗き、息を飲む。そこには焦がれてやまない憧れのヒーローの名前が記されていた。




 乾いた砂を鳴らし足音が近づいてくる。携帯電話を片手にこちらへと歩いてくる細長い人影はオールマイトその人だった。

「先方の都合で仕事が急にオフになってね。ビックリしたかい?」

 思わぬヒーローの登場に目を見開いてコクコクと頷く僕を見て、オールマイトは満足そうにニッと笑った。まるで悪戯が成功した無邪気な子供のようなその笑顔に、僕の胸は容易く跳ねる。

「今日は一日トレーニングに付き合えるよ。夏休みの最終日だしね、気合いを入れていくから君もそのつもりで頑張って」

 その一言で僕の頭は完全に舞い上がってしまった。憧れのヒーローを丸一日独り占め出来る。その事実だけで完全に有頂天となり、その日の僕は普段の倍近い力が出ているのではと思えるほどに絶好調だった。



 だがアクシデントとはそんなときにこそやって来る。

 明日から九月に入るとは思えぬほどギラギラと輝いていた太陽は昼過ぎにはなりを潜め、代わりに西の空には分厚い雲が広がり始めていた。日の陰りに気付いたオールマイトが空を見上げ眉間に皺を寄せる。

「雲の動きが早いな……一雨来そうだ。少年、少し休憩するかい?」

「いえ、調子がいいのでこのまま続けます」

 オールマイトと一緒に過ごせる貴重な時間を少しでも無駄にしたくはなかった。今思えば完全に浮かれていたのだ。そんな僕に冷や水を浴びせるかのように、勢いを増した暗雲はあっという間に空を覆い尽くし、ぽつぽつと冷たい雨を降らせ始めた。

「少年、このままでは身体が冷えてしまう。一旦雨宿りをしよう」

「でも」

「焦る気持ちもわかるけどな、身体を壊してしまったら元も子もないだろう?」

 ためらう僕の肩をバシンと叩くとオールマイトは陽気に笑った。せっかくオールマイトが貴重な休日を僕にくれたと言うのに。そう思うと悔しさが募るが、僕を残して彼が一人で雨宿りするとも思えなかった。

 このままでは僕だけではなくオールマイトまで濡れ鼠になってしまうであろうことは想像に難くない。ただでさえ身体に大きな傷を抱えた彼を冷たい雨に晒すわけにはいかない。自分の不運さを呪いながらも僕はオールマイトと共に、小走りで公園の隅に設置された休憩所へと向かった。






 休憩所へ辿り着く頃には雨脚は激しさを増し、大粒の雨が横殴りに叩きつけてくるような大雨へと変わっていた。夕立などという風流な響きにはとても似合わないそれは、さながら南国のスコールのようだった。

 休憩所とは名ばかりの東屋だが、今は雨が凌げるだけでも有難い。吹き荒ぶ雨から逃げるように二人して屋根の下に駆け込むとそこには古ぼけた小さなベンチがひとつきり、ぽつりと佇んでいた。

 どうしたらいいかわからずに突っ立っていると早々に腰を下ろしたオールマイトが不思議そうに僕を見上げる。

「どうした少年。座らないのかい?」

「い、いえ、あの……お邪魔します」

「どうぞ。って、私が言うのもおかしいけどな」

 そう言って戯けたような仕草で身体をずらすと、僕が座るためのスペースを空けてくれた。

 日本人離れした長身の彼にこのベンチは小さ過ぎるのだろう。長い脚を持て余すように折り曲げて座る彼の隣に恐る恐る腰を下ろす。かつてないほど近いその距離に、僕の胸はドキリと高鳴った。


 重たい雲に覆われた空が一瞬明るく照らされて、遠くからかすかな雷鳴が響く。頑丈とは言いがたい東屋の屋根は、容赦無く叩きつける雨に軋み悲鳴をあげていた。

 先ほどまで漂っていた夏の空気が嘘のように冷やされて、否応無しに秋へと追い立てられているようだ。

「凄い雨だね。なに、そう長くは続かないさ。夕立のようなものだろうから」

 濡れて張り付く前髪をかき上げながらオールマイトが呟く。この東屋までのわずかな距離を走る間に、彼の髪も服も雨が滴るほどにすっかりと濡れそぼっていた。おそらく子供である僕よりもオールマイトは体温が低い。冷え切っているであろうその薄い身体に胸の奥がチクリと痛む。

「ごめんなさい。僕がもっと早く切り上げていれば……」

 浮かれた僕の我が儘に彼を巻き込んでしまった。項垂れる僕にオールマイトは一瞬目を丸くすると、大袈裟に肩をすくませ苦笑した。

「まったくナンセンスだな君は。いいんだよ、これは監督役である私の判断ミスだ。まさかここまでの大雨になるとは思わなかったからね」

「でも、あなたまでこんなに濡れて」

「たかが雨だよ。濡れるくらい構わないさ。ああ、でも身体はちゃんと拭いておかないとな」

 そう言うとごそごそとバッグを漁り、タオルを取り出す。

「ほら、少年」

「ありがとうございます」

 差し出されたタオルを受け取り、顔を伝う雫を拭う。オールマイトの私物だと思うと勿体無い気もしたが今はそんなこと言ってられない。ゴシゴシとタオルで雨を拭う僕を見てオールマイトは満足そうに笑った。

「明日から学校だろう? 今日はしっかり風呂に入って温まるんだぞ」

「はい、気を付けます」

「夏の終わりの雨は、冷えるから」

 夏が終わる。薄い唇から零れ落ちたその何気無い言葉に息が詰まる。季節の終わりはいつだってどこか物悲しさを感じさせるがその台詞はことさらに強く僕の胸を締め付けた。

 言葉に出来ない寂寥感が胸に溢れて白いタオルに顔を埋める。雨を吸い込んだ飾り気のないタオルからは清潔な香りがした。


 もしも今、この手を伸ばしたなら。

 ここで彼を抱き締めたなら、こんな香りがするのだろうか。

(何を考えてるんだ、僕は)

 そんな妄想を頭を振って無理矢理追い出す。そのまま頭からタオルを被り、顔を拭うふりをしてそっと彼の横顔を盗み見る。


 オールマイト。世界に愛された平和の象徴。僕の憧れ。

 燃え盛る炎の中、傷だらけの顔に笑顔を浮かべ人々を救う彼の姿を思い出す。

 消えない傷を抱えながらも平和の象徴として立ち続けるその背中は、僕の人生の道しるべだ。


 液晶越しに初めて見たあの日から、僕の心の中にはいつだってオールマイトがいた。今目の前にいる彼はかつて幼い日の僕が憧れたヒーローの姿とはかけ離れているけれど、それでもやっぱり彼は僕の憧れだった。

 いや、憧れだけではない。苦しいほどに胸をかき乱すこの気持ちは。

「緑谷少年?」

 ぼんやりと思考に耽っていると咎めるような声に引き戻された。長い腕が伸びてきたかと思うと、大きな手のひらにタオルごしに頭を包まれる。そのまま驚く間も無くゴシゴシと髪をかき混ぜられ、思わず間の抜けた声が漏れてしまう。

「うわっ」

「ほらほら、ぼんやりしない。ヒーローだって風邪は引くんだぜ」

「はっ、はい! すみません!」

「はは、そうしているとまるで濡れた仔犬みたいだね」

 そう言って笑う彼に、僕の不埒な思惑に気付いてる様子はない。

 無防備な笑顔に安堵すると同時に、少しの罪悪感が胸を掠める。ドクドクと激しく脈打つ心臓を抑え付けるように濡れたシャツを握り締めた。


 雨はいよいよ強く降り注ぎ、晩夏の浜辺は霧に包まれたかのように白く烟る。目の前には波打つ海が一面に広がっているというのに、叩きつけるような雨のせいで波の音さえ聞こえない。

 雨の音と柔らかな彼の声、そして僕の心臓の音。ただでさえ寂れた海岸は雨のせいで通りかかる人の姿もなく、まるで切り取られた世界にたった二人で取り残されてしまったような錯覚に囚われる。

「雨、止まないね」

「はい」

 さっきまではあれほど恨めしく思っていたはずのこの雨に、今はもう少しだけ止まないで欲しい、だなんて思い始めている。自分の現金さに呆れながらも、心臓の鼓動は早鐘のように鳴り続けていておさまる気配はない。

 どれだけ頭を巡らせても自分の中に沸き起こる不可思議な感情に何一つ答えを出せない僕は、ただ彼の側で黙って雨が過ぎるのを待つことしか出来なかった。


 分厚い雲に塗り潰された空は重く、太陽が今どの位置にあるのかさえわからない。白く灼けた砂浜は止めどなく注がれる雨を吸い込んで、まるで海底のように暗く沈んでいた。

 視線を上げると雨に濡れたオールマイトの横顔が目に入る。オールマイトは手に持ったタオルを玩びながら、ぼんやりと降りしきる雨を見つめていた。

 痩せて頬のこけた横顔は濡れ落ちた前髪で隠れていて、彼が今どんな表情でいるのかはよくわからない。細く長い首筋を、粒になった雨の雫がゆっくりと伝う。やがて喉元へと辿り着いた雨粒は浮かび上がった鎖骨をなぞり、そのまま胸元へと吸い込まれていった。

 濡れて張り付く白いシャツに、薄っすらと骨ばった身体の輪郭が浮かび上がる。骨と皮だけで作られたようなその身体は力を込めて抱き締めれば容易く折れてしまいそうだった。

 得体の知れない騒めきに胸の鼓動はますます速度を上げる。頭の中で警告音が鳴り響くが、まるで吸い寄せられるように彼の横顔から目を離すことが出来ない。


 オールマイト。声に出さずに胸の内で呼び掛ける。まるで神様の名前だ。

 それは祈りのように僕の中に響きわたり、そのまま溢れ出ては息が出来ぬほどの強さで僕の胸を締め付けた。


 ふと、金の髪がゆらりと揺れてゆっくりと彼がこちらを向いた。前髪を濡らす雨の雫が粒となり、音もなく落ちては消える。

 深く暗い眼窩の奥に輝く瞳が僕を捉えると、金色の睫毛に彩られた瞼が二度瞬きをして、柔らかく微笑んだ。


 息が、止まる。


 こんな綺麗な青を、僕は他に知らない。まるで空と海が溶け合ったような、どこまでも澄んだ蒼い瞳。今そこに映っているのはただひとり、僕だけだ。


 そう思った瞬間に、心臓が破れそうな程に激しく高鳴った。



 雨に閉ざされた世界の果てで彼と二人、指先一つ触れ合わせたわけではない。だがその密やかな空気はただそれだけで崇拝にも似た憧れと、その先へと向かう感情の狭間に立っていた僕を揺らがせるには充分だった。

 絶え間なく降り続く雨が視界を白く霞ませる。ただでさえ曖昧なその境界線は零れ落ちる雨に溶け雫となり、とうとうその形を無くしてぱしゃんと消えた。


 それはただの自覚に過ぎなかった。自分はとうの昔に恋をしていたのだ。

 憧れ続けた完全無欠の偶像ではない。傷だらけの身体と恐怖に打ち震える心を抱え、それでもヒーローであらんとする不器用で愚直な、ただの『人間』でしかない彼に。


 液晶越しに焦がれ続けた彼と初めて出会ったあの日。彼の背に沈む夕陽だけが僕らを見ていた。

 風に煽られた桜の花びらが舞い落ちて、まるで光の欠片のように彼の痩せた身体を彩っていたのを覚えている。満身創痍のヒーローは人としてその身を晒し、僕がずっと欲しかった言葉と未来をくれた。


 そして、僕は恋に落ちた。

 深く、熱く、そして鮮やかな。晴れ渡る空に落ちていくような、果てのない恋だった。



「少年、どうした?」

 突如言葉を失い固まってしまった僕に、オールマイトが首を傾げる。答える言葉が見つからずにただ黙って首を振るとオールマイトは訝しげに眉間に皺を寄せた。

「無理は良くないぞ」

 濡れて張り付いた前髪を長い指が搔き分ける。冷えた指先が額に触れ、案じるように細められた青い瞳が僕の顔を覗き込んだ。

「熱は無いな。ほら、ちゃんと拭かないと身体が冷えてしまうよ」

 冷え切った互いの肌が体温を分け合ってじんわりと熱を持つ。その熱は彼に触れられたところからじわじわと全身へと広がっていき、熱病のように僕の身体を支配した。


 いつの間にか雲は流れ、雨は小雨へと変わっていた。さあさあと穏やかに流れる雨音に混じって、寄せては返す波の音が耳鳴りのように鼓膜を揺らす。


 突如思い知らされた自分の中に潜む嵐のような慕情に翻弄され、僕はただ目の前の想い人の顔を見上げることしか出来なかった。






「出久くん?」

 聞きなれた声に意識が浮上する。

 本を読んでいたはずが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。瞬きをすると雨に霞む海岸の景色はぼやけ、ゆっくりと世界がその輪郭を取り戻す。

「眠いならちゃんとベッドで寝た方がいい。最近夜勤続きだっただろう」

「大丈夫ですよ。少しうとうとしてしまっただけです」

 訝しげにこちらを覗き込む彼の顔はまるで思い出の再現のようで思わず笑みが浮かんだ。眉間に皺を刻む俊典さんの手を引いて腕の中へと抱き寄せる。

「こら、話を聞きなさい。ここで寝るならなら毛布を持ってくるから」

「俊典さんの顔を見たら目が覚めました」

「全くもう……君ってやつは」

 呆れたように溜息を吐きながらも抵抗するそぶりはない。腕の中の身体が記憶の中で触れた指先よりも、いくらか温かいことに安堵する。

「なんだかまだ夢の中みたいな顔をしているね」

「そうかもしれません」

 俊典さんの腕が僕の首へと回され、こつんと額が押し当てられる。その瞳にはぼんやりと夢心地の自分の顔が写っていた。

「昔の夢を見ていました。あなたと出会って、初めて過ごした夏の夢を」

 僕を見つめる俊典さんの青い瞳は深く、そして鮮やかで、まるで夢の続きを見ているかのようだった。

 窓の外にには雨が絶え間なく降り注いでいた。ガラスを伝う雨の雫に夏の残り香が洗い流されてゆく。

 ここから見えるのはコンクリートのビルと灰色に塗り潰された空ばかりだと言うのに、耳を澄ませると規則正しく響く雨の音に混じって遠い潮騒が聞こえてくるような気さえした。

「懐かしいね」

 目を細めて窓の外を見上げる彼の横顔が夢の中の記憶と重なる。

 彼の心にもあの雨に烟る夏の海岸が広がっているのだろうか。

「まるで遠い昔のことみたいだ」

 あれから随分と遠いところまで来てしまった。そう呟いて俊典さんが骨の浮いた手のひらを僕の右手に重ねた。そのまま僕の右腕を持ち上げると、長い指でゆっくりとなぞる。関節を辿り、刻まれた傷痕に指先を這わせ、まるで何かを確かめるかのように丁寧に繰り返し、何度も。

「君ももうすっかり大人だね。今では私が思った通り……いや、思っていた以上に素晴らしいヒーローだ」

 彼の言葉はいつだって真っ直ぐだ。てらいなく伝えられる賞賛が気恥ずかしくて思わず目を逸らす。

「少しはカッコよくなりました?」

 照れ隠しに頬をかけば、彼はその澄んだ瞳をぱちりと瞬かせ、柔らかく笑った。

「君は昔から格好良かったよ、ずっとね」

 一片の嘘もない笑顔に頬が熱くなる。赤くなった顔を隠すように彼の肩へと顔を埋めるとくすくすと笑いながらも解かれた腕が背中へと回された。



 あの日触れることの出来なかった痩躯を抱き締める。

 かすかに雨を吸い込んだ金の髪からは、夏の終わりの匂いがした。

评论